ぽやしみ〜

こんにちは。初のゼミ発表を終え軽い放心状態です。ゼミ楽しかったですよ。話しすぎて10分オーバーしちゃいましたけど。十分延長は十分じゃなかった(爆笑)のでまだ喋りたいこと語り尽くせてはいないです。意外とぼくおしゃべりなんですかね?そんなことはないか。昨日一昨日の進捗が目覚ましかっただけですね。

 

タイトルはつまり語彙力のなさを嘆いてるわけです。最近文学作品に触れる機会がめっきり減ってしまい新しい語彙が入ってこないせいですね。この三ヶ月遊び倒した分の時間を読書に当てようかなと思います。三島由紀夫読みたいですね。坂口安吾は読みたいですけど安吾読んだところで語彙力そこまでつかないんですよ。曰く文章の装飾が嫌いで最低限の言葉しか使わない(英文のように同値な言い換えをしない)ので。したがって安吾読んでるとたまに読みづらさを感じます。そこだけは安吾に賛成できない部分で、文章は可能な限り同じ意味で言葉を置き換えていくべきであると思います(今も"同値な言い換え"を同値に言い換えたんですよ)。勿論村上春樹みたいな過度のレトリックは(書くときの文体としては)あんまり好きじゃないですけど。

あ、村上春樹は好きですよ。ただあれはぼくのような青二才では完璧には楽しめないような気がします。訳本ですが「ライ麦畑でつかまえて」は本当に何言いたいのかよくわかんなかったです。ただぼくは同書の主人公よりはクズじゃないのはわかります。もうちょい意志つよいです。

 

小説が読みたい純文学に触れたいと口は言いながらも体は正直でいま現在数学をしております。数学の誘惑に勝ててません。東大出版が良書揃いすぎるのも一つの原因かなあと。東大コンプ(爆笑)なので東大出版で取り揃えています。京大は京大出版の数学の本はないんです。不思議なことに。物理とかはあるんですけどね。森重文とか書いてくれても良かったんじゃないですかね?おい○海高校!

 

 

ここまで書いてきて思ったんですけどひとつのテーマについてずらっと言説を並べるの非常に大変なことじゃないですか?まあぼくは誰かに主張したくて文を書いているわけではないのでいいんですけど。何か書きたいことが現れたときにちゃんとかける自信あんまないですね。むしろ日本語の文章の強みはだらだら書いてもひとつのpassageとしてまとまってくれることだと思ってるので、随筆形式のままが一番ラクだなあと思います。英語は段落キッチリしてますからね〜。ゆえにぼくも説得力ある文が書きたいときはおそらく英語流の段落の使い方をすると思います。いまもはや段落とかいう概念無視して書いてますからね。読んでくださってる方がもしいたら本当にご迷惑をおかけして申し訳ございません。

 

 

少し短い気もしますが以上とします。書きたいことを書くだけなので三日坊主上等の心構えでございます。それでは失礼します。

努力は輝かしい…?

受験が終わってから、合否が出てから、大学生活がスタートしてから、ずっと考え続けている命題です。「果たして努力は輝かしく褒められるべき、他人に誇れるシロモノなのか?」

 

ぼくは褒められるべきだが誇るものではない、という結論を出しました。ありきたりですが。散々逆説を弄すだとか言っておいて凡庸な結論ですいませんね。わざわざ意見をねじ曲げてまで逆説を弄すのはつまらないと思いませんか?そういう愚直さ、安直さキライなんですよね。その意味で言うと、ただ単にグロテスクにしただけだったり虫をたくさん登場させたり…で狂気を表現するB級ホラーも嫌いです。あからさまでこれみよがしな皮肉も嫌いです。狂気はもっと静かでなくてはならないと思います。きっと誰もに伝わるだろう例としては舞姫のエリスのラストシーンとかですかね。もっと狂っているのは太田豊太郎のような気もしなくもないですが。あと三島由紀夫の「美神」の死にかけの爺さんとかですか。教科書に出てくるような例ばかりで申し訳ないです。

 

脱線してしまったので本題に戻りたいと思います。科学者はとかく脱線しがちなんですよね。…とまた脱線しかけましたが。 

 

努力は褒められるべき、ということについて述べたいと思います。こちらは本当に一般論そのままなんだと思われますが努力した人間あるいは努力する力のある人間は実際強いです。ぼく自身受験を経て強くなったと思います。思考力や与えられたタスクをこなす力など。だったら朝ちゃんと起きて授業キッチリ出ろやって話なんですけどね!まあその話は置いておいて、実際ぼくが強くなった通り根性を鍛え辛抱強くなるためには努力が必要で、かつ努力すれば根性は身につくかと思われます。いわゆる必要十分条件です。根性や辛抱強さは仕事などで役に立つので褒められるべき能力で、したがってそれと必要十分な努力も褒められるべきです。また詳しくは後述しますが努力できる、ということは決して自明の話ではありません。誰でも気の持ちようで努力できる、努力できないやつは自分に甘いたるんだ人間だ、なんて到底言うことはできません。その観点からしても努力できるだけでも素晴らしいことなので、努力は褒められるべきであると考えられます。

一方で努力は誇るべきモノではない、というのはどういうことでしょうか。正確には他人には、という意味ですけども。前述の通り努力は褒められるに値するので自身の内には自身の努力への矜持は持つべきものであると思います。では他人に誇ってはいけないとはどういうことか?理由は至極簡単で、努力は自分の意志や思いだけでは出来ないからです。努力するにはまず何より充分な才能と環境が不可欠です。これは必要条件であって十分条件ではありません。すなわち、努力には才能と環境が必要だがそれだけでは努力はできないということです。努力の継続の原動力となるのは達成感ですが、達成感を得るためには目標を達成せねばなりません。目標を達成するには自らの能力を高めなければならないわけですが、ここで才能と環境の障害にぶち当たります。まず才能がなければいくら練習したって上手くなりません。ぼくは陸上競技で強くなりたくて一生懸命努力しましたがまったく報われませんでした。最後の最後まで記録なんてほとんど伸びませんでしたから。同じことをしていた同期は伸びているので努力の仕方はそこまで外れてはいなかったはずなのに。これはおそらく才能不足であったからです。陸上競技が伸びなかったのは努力不足が原因ですが、努力を欠けさせた要因の一つ才能の不足も挙げられるかと思われます。もちろん理由の大半はぼくが弱い人間であったということです。

それに加えて環境の話もあります。これは陸上競技から離れて勉強の話になるんですけど、物理が大の苦手でまったく物理を勉強しなかったぼくは苑田宣教師に逢った高2夏以降物理を真面目に勉強するようになり、成績もめきめき伸びはじめました。これは、ぼくは意志が弱くて物理を勉強できなかったわけではなく、環境に問題があったことを示しています(入山の意志はそもそも弱いことには触れないでおきます)。

上の体験を通しぼくは努力には才能と環境が不可欠なのだと思うのですが、この2つの事柄、殊に環境に関しては自分の力ではどうしようもないものです。環境は周りのサポート有ってはじめて整えられるものです。努力する環境が整備してくれる人のはたいてい親だと思いますし、まわりの同期や先輩後輩との巡り合わせもあると思います。したがって努力できるのは決して意志だけの問題ではなく、その人がどれだけ恵まれているかということも重要になってくるのです。ここまでくると、努力はそもそもまず周りに恵まれているからこそできるということを忘れてさも自分の手柄かのように、鬼の首を獲ったのは俺だと言わんばかりに周りにみせつける行為は愚かなものであるとわかるでしょう。実際鬼にダメージを蓄積してくれ、首を獲る手助けをしてくれた仲間のことを忘れてしまっているのです。

 

 

 

 

というわけでぼくはあまり学歴や能力を誇示しないように努めています。もちろん誇示する能力なんてほとほとないのは承知ですが。

ことわざにもあるじゃないですか、「能ある鷹は爪を隠す」と。これは対偶をとれば真であることがすぐにわかります。「爪を隠さない鷹は能がない」というわけです。自分の力や地位を過度に見せびらかすやつなんて、大したやつじゃあないんです。ぼくは人間的に駄目なので、某掲示板で煽られたときは学歴で殴りに行きかけましたが。一発くらい殴ってる気もします。まあたまには学歴で殴るの許してほしいですよね(?)

 

 

ぼくはほんの微小に、有効数字三桁でようやく引っかかる程度の小ささではありますがクロスカントリーは才能がわずかにあるんじゃないかと思うので努力を重ねていきたいですね。周りには自分より遥かに上手いライバルがごろごろといて、環境としても悪くはないかなあと。ローラー練する場所ないのがきつい、くらいです。精進したいですね。

全然話違うんですけど駿茶は勉強する環境としてかなり上位だと思うんで努力を怠らないでくださいね。一浪は現役だと思って頑張りましょう。入試結果において浪人も現役も差はほとんど無いです。つまりは浪人生は夏〜秋ごろまでには受かる実力(またはそれに準ずる程度)身につけていないとちょっとしんどい戦いになるんじゃないかと思います。そこで油断してもいけないですしね。浪人は本当にメンタルが強くないとやっていけなさそうで、浪人生はすごいと思います。努力する力は間違いなく浪人を経た人間のほうが強いのではないでしょうか?

 

全然関係ないんですけど京大自習室はちょっとくさいです。現場からは以上です。

自由律俳句

特に自己紹介は必要ないと思います。数学とクロスカントリーをやる大学生です。スキージャンプもやるそうです。口調については、ですます調が一番しっくりくるのでこれでいきます。記事によってはである調も使うかもしれません。

 

ツイッターはあくまでミニブログで、持論を長々展開したり鬱々とした気分を一斉にわっと吐き出す場としてはふさわしくないように考えられたのでブログを書き始めることとしました。大学入試の国語で鍛えられたため長文で滔々と語り続けるほうが好みなんですよね。国語の点数は聞かないでおいてください。

 

 

ぼくは坂口安吾という作家が大好きで、おそらくこのブログ内でも折に触れて引用やらなんやらすることになる予感がしているんですけど、ご存知の通り彼は新戯作派と呼ばれるいわゆる異端児で、その一見逆説を弄しているような言説に魅力があります。したがって彼の考え方や価値観に多大に影響を受けたぼくもまた逆説的な意見をときたま抱くようになりまして、平和は争いあってこそ生まれる、とか風俗嬢はもっとも誇り高い仕事だ、とか考えるようになりました。この2つの命題はわりと気に入っているので他の記事で詳しく書く気がします。簡単に言えばそもそも争いなんかなかったら平和なんて概念などなく、女性としての誇りを売る仕事をする風俗嬢キャバ嬢が誇りを持たないわけがない、という訳です。知人にキャバ嬢が一人おりますが論理的な考え方が弱いものの芯の強い人であり、ぼくなんか到底かなわんなあと思います。

 

ぼくが書くのはいわゆる随筆で、したがって論理構成もとりたてた主張もございません。ただ文章の端々にぼくの持論や考えが散らかっている(散らかしている)ので、暇な人は拾ってみてください。おそらく拾った石のいくつかは坂口安吾の顔が書いてあると思いますが。坂口安吾は自分の文章を「精神の不健全な人のための処方薬」と称している通り不健全で軽く捻くれていないと読んでいて気持の悪くなる文章だと思われます。丁度ぼくが坂口安吾を読み始めたのが高2春ごろの病み期でありましたから読み出した時期としては最適だったかもしれません。あの文章には鬱や病み特有の考え方の捻れのような暗さが裏に隠れていて病んでいるときに読むととても沁み渡るんですよね。坂口安吾本人も病んでヒロポン中毒になって死んでますからね。ぼくもモンスター飲みすぎて死んでしまうんですかね?

 

 

タイトルには特に意味はございません。ただ、五七五の俳句の黄金の定型を捨て新たな表現の域へ踏み込もうとした詩人のようすが、ユークリッド幾何やその他諸々の公理を自明でないものと認識し、公理を構成するところから数学をスタートすることで全く新しい世界を切り拓こうとした数学者の姿に少し似ているような気がいたします。当然のことながら自由は束縛の中から創られるのであって、その意味で京都大学の自由はただの野放しであるようにも思います。ぼくは野放し大好きですけどね。きっと京大理学部に通う学生の多くも野放し大好きなんじゃないかと思います。東京大学は豪速球で放られるリンゴを受け止める努力をしなくてはいけませんが京都大学ではリンゴはそのへんに落ちています。まあ落ちているのは実は絶壁の上だったりするんですけど。バナナに関しても同様で、東京大学ではワゴンに積まれた数少ないバナナを取り合い、優秀な人間がこれを手にするのですが、京都大学は大きなバナナの木が一本堂々と立っていて果実を勝手に取っていくスタイルなのです。もちろん登りきる力のない人間はバナナを得られませんが、自由にバナナを選ぶことができます。さらにはバナナの木を登りきってその向こうにあるパイナップルをとりに行く猛者まで現れます。この勝手きままで無法な感じがぼくは大好きで、京都大学入って良かったなあと感じます。

 

 

 

 

つまり何が言いたいかって、リンゴとバナナは一人暮らしの強い味方ってことですよ。あとパイナップルはめったに手が届かないゼータク品ってことです。以上です。