自由律俳句

特に自己紹介は必要ないと思います。数学とクロスカントリーをやる大学生です。スキージャンプもやるそうです。口調については、ですます調が一番しっくりくるのでこれでいきます。記事によってはである調も使うかもしれません。

 

ツイッターはあくまでミニブログで、持論を長々展開したり鬱々とした気分を一斉にわっと吐き出す場としてはふさわしくないように考えられたのでブログを書き始めることとしました。大学入試の国語で鍛えられたため長文で滔々と語り続けるほうが好みなんですよね。国語の点数は聞かないでおいてください。

 

 

ぼくは坂口安吾という作家が大好きで、おそらくこのブログ内でも折に触れて引用やらなんやらすることになる予感がしているんですけど、ご存知の通り彼は新戯作派と呼ばれるいわゆる異端児で、その一見逆説を弄しているような言説に魅力があります。したがって彼の考え方や価値観に多大に影響を受けたぼくもまた逆説的な意見をときたま抱くようになりまして、平和は争いあってこそ生まれる、とか風俗嬢はもっとも誇り高い仕事だ、とか考えるようになりました。この2つの命題はわりと気に入っているので他の記事で詳しく書く気がします。簡単に言えばそもそも争いなんかなかったら平和なんて概念などなく、女性としての誇りを売る仕事をする風俗嬢キャバ嬢が誇りを持たないわけがない、という訳です。知人にキャバ嬢が一人おりますが論理的な考え方が弱いものの芯の強い人であり、ぼくなんか到底かなわんなあと思います。

 

ぼくが書くのはいわゆる随筆で、したがって論理構成もとりたてた主張もございません。ただ文章の端々にぼくの持論や考えが散らかっている(散らかしている)ので、暇な人は拾ってみてください。おそらく拾った石のいくつかは坂口安吾の顔が書いてあると思いますが。坂口安吾は自分の文章を「精神の不健全な人のための処方薬」と称している通り不健全で軽く捻くれていないと読んでいて気持の悪くなる文章だと思われます。丁度ぼくが坂口安吾を読み始めたのが高2春ごろの病み期でありましたから読み出した時期としては最適だったかもしれません。あの文章には鬱や病み特有の考え方の捻れのような暗さが裏に隠れていて病んでいるときに読むととても沁み渡るんですよね。坂口安吾本人も病んでヒロポン中毒になって死んでますからね。ぼくもモンスター飲みすぎて死んでしまうんですかね?

 

 

タイトルには特に意味はございません。ただ、五七五の俳句の黄金の定型を捨て新たな表現の域へ踏み込もうとした詩人のようすが、ユークリッド幾何やその他諸々の公理を自明でないものと認識し、公理を構成するところから数学をスタートすることで全く新しい世界を切り拓こうとした数学者の姿に少し似ているような気がいたします。当然のことながら自由は束縛の中から創られるのであって、その意味で京都大学の自由はただの野放しであるようにも思います。ぼくは野放し大好きですけどね。きっと京大理学部に通う学生の多くも野放し大好きなんじゃないかと思います。東京大学は豪速球で放られるリンゴを受け止める努力をしなくてはいけませんが京都大学ではリンゴはそのへんに落ちています。まあ落ちているのは実は絶壁の上だったりするんですけど。バナナに関しても同様で、東京大学ではワゴンに積まれた数少ないバナナを取り合い、優秀な人間がこれを手にするのですが、京都大学は大きなバナナの木が一本堂々と立っていて果実を勝手に取っていくスタイルなのです。もちろん登りきる力のない人間はバナナを得られませんが、自由にバナナを選ぶことができます。さらにはバナナの木を登りきってその向こうにあるパイナップルをとりに行く猛者まで現れます。この勝手きままで無法な感じがぼくは大好きで、京都大学入って良かったなあと感じます。

 

 

 

 

つまり何が言いたいかって、リンゴとバナナは一人暮らしの強い味方ってことですよ。あとパイナップルはめったに手が届かないゼータク品ってことです。以上です。