厳密な証明にも穴はあるんだよな…

四ヶ月ぶりにブログを書きます。レポートを書けないことが判明し落単が確定した一時間後に授業料免除の通達をいただいた者です。

親の収入が学費免除審査の一端を担っていることを鑑みると、冷静に考えてこの成績で授業料免除をもらえるということはわが家庭の収入がかなり低いということなのではないかと予想されてしまいます。本当に国立に行けてよかったという気持ちがしますね。まあスキーなんてしてるので結局迷惑をかけていますね。せめて大学で学びを得たいです。

大学に来て勉強できたことは当初の予定よりは少ないですけれど、他の大学生と比べればなかなかの質と量だと自負しております。(じゃあ単位を取れよ!というツッコミはなしで。)

 

本当に受験はストレッサーですね。今年はもうぼくは受験に関係ないのに非常な心労を負ってしまっています。お人好しなので。応援してる人には本当にがんばってほしいです。

別に受験に落ちたからといってその人の魅力が失われるわけでもなく、結局大学で何をするかが大事なことを考えれば合否なんてなんでもよい、と思っていますがやはりみんな受かってほしいという気持ちを捨てきれません。なんとなく。とにかく受験終わってみんなと遊びたいなあと思います。

 

一転して、数学っぽい哲学っぽい話をします。自然言語とか数学の中の言葉とかのおはなしです。

ぼくは高校生の頃、高校数学の厳密さの薄さが苦手でした。特に極限の種々の公式(limの分配則とか)がなんの証明も説明もなく使わされることが本当に嫌でした。はやく大学入って"厳密"な数学を知りたいなあと思って過ごしていました。

しかし大学に入ってさまざまな数学やらの勉強をしていて、はたして厳密ってなんだろうと思い悩むことになりました。一回生前期にε-δ論法を用いた極限の定義を学び、そこから高校時代の悩みの種であった極限の公式を導いたときは、これは確かに厳密だ、と嬉しくなったわけですが、しかしこれは本当に厳密なのでしょうか?この極限の定義は本当にwell-definedなのでしょうか。任意のεに対して本当にN=N(ε)はとれるのか具体的に明示していませんし、実数間の距離もあいまいに定義されているし、そもそも数列とは?実数とは?  …枚挙に暇がありません。

思うに厳密な論理とは、それを追う個々人が納得できる最小の詳しさを持っている論理でょう。個々人が論理に隙を見つけられず、納得できればそれは厳密なのです。例えば(少し違うかもしれませんが)野球のライナーとフライには明確な違いはありません。ぱっと見でわかることがほとんどだし、そもそもどちらもワンアウトなのでみんなそれ以上追求しないのです。それゆえ定義があいまいなままなのです。

人間にとって自然界はどのくらい厳密なのでしょうか。。高校数学は17世紀程度の数学の総集編みたいなものなのですが、事実物理学は17〜19世紀までこのレベルのあいまいさの数学のみによって発展してきました。εδみたいな形になったのはそのあとの話なのです。それも物理には応用されていませんし。アリストテレスは力を物体に加えれば速度が変わるだとかわりと素朴な発想で、自然言語において物理をしていましたが現代のように自然界を制圧することはかないませんでした。

古典物理学もかなり人間の直観的なものの見方をしています。しかし微分積分法によって極限、広く言えば無限の概念を導入しています。無限と、それに付随する(無限をそれなりに正しく扱うための)論理によって、物理は自然をあるていど(光速に十分遅い程度の世界で)屈服させました。この意味では、我々の暮らす日常における厳密は自然言語+無限、程度でいいと言えるのではないでしょうか。

しかし人間はさらに上の厳密さを目指せます。事実カントールラッセルは自然言語で矛盾(パラドクス)が生じることを指摘(万能の神は自分の持てないほど重い石をつくれるか?)し、述語論理などの形によってさらに隙のない理論構築を目指しました。それゆえ公理的集合論などでは殆ど全ての人はあいまいな部分をみつけられないほど厳密な証明を書くことができます。みつけられるとすれば公理のとりかたとかですかね。

さて、そこで、もし宇宙に人間と同じような知能をもつ生き物がいたとしたら、その生き物は人間の書いた数学の証明を読んでなにを思うんでしょうね?直観的な感覚が違いすぎて全然厳密でない、と叫ぶ可能性は十分にあります。厳密って、あくまで地球人基準の厳密ですからね。もしそんないきものがいたら楽しいですよね!宇宙はおそらくそれらの生き物たちと共通なはずであり、かつ地球人の物理は自然をあるていど征服できていることを考えれば、物理学のとる厳密さが、全宇宙共通の最大の厳密さなのかもしれませんね。それ以降の厳密さを追い求めたらきっと生き物特有の考え方、直観がどうしても混ざってくるのでしょうね。

…ということは、物理学は全宇宙共通言語になりえるということですかね?それとも、各物理学ごとに使っている論理は全然違うのに結果だけみれば一致している、とかそういう事態にもなるんですかね?なんにしてもふしぎですね。

 

(ちなみに、パラドクスはたいてい自己参照によって生じます。前述の神のパラドクスも、述語に主語である神自身が登場していますね。有名な嘘つきのパラドクスも、嘘つきは自分のことについて言及しています。これら自己参照型のパラドクスを避けるために、ZF公理系では自己参照は行われないことを前提としています。内包公理や置換公理において自己参照するような集合はつくれなくなっています。)

 

なんかめっちゃ長くなりましたね。ではまた。